オランダの巨匠レンブラントが「100ギルダー版画」に使用したのは、日本の「和紙」でした。

レンブラントの100ギルダー版画
レンブラント・ハルメンソーン・ファン・レイン( Rembrandt Harmenszoon van Rijn, 1606年7月15日 – 1669年10月4日)

引用元:自画像
Self Portrait at the Age of 34 ナショナル・ギャラリー
『夜警』『トゥルプ博士の解剖学講義』で有名なオランダの画家 レンブラント・ファン・レインは、1640年代に、ドライポイントと紙を用いて「100ギルダー版画」(100グルテン版画)を制作しました。 当時の100ギルダーは非常に高額だったそうです。
100ギルダー版画『病人を癒やすキリスト』

引用元:『病人を癒やすキリスト』 CC-Zero
The Hundred Guilder Print クリーヴランド美術館蔵
この100ギルダー版画に使われたのは和紙。
我が国が誇るユネスコの無形文化遺産、和紙です。
1632年、レンブラントは故郷のライデンを離れ、ネーデルラント連邦共和国(現在のオランダ)の首都であるアムステルダムに移り住みます。
『レンブラント 光と影を操る者』(昭文社)では、当時のアムステルダムについて、「港にはたくさんの帆船がひしめき合い、店には世界中から集まった品々が並び、その品ぞろえは当時のヨーロッパのどこよりも豊かだった。」とあります。活気に満ちた光景が想像できますね。
アムステルダムには、日本から輸入された刀や鎧兜なども到着します。
レンブラントも日本の品をコレクションしていました。
そのなかでも、独特の色合いと光沢、柔らかな紙質を持つ雁皮紙という和紙を、彼は気に入り、版画制作で使うようになります。
山内舞子(監修). 2021-9-10. 『教養として知っておきたい 名画BEST100』. 永岡書店. p.129.
17世紀、日本から遠く離れたオランダで生活していたひとが日本の和紙を使っていた、と聞くと、なんだか不思議な感じがしてしまいます。


日本との貿易
5世紀末以降スペイン領だったネーデルラント(オランダ)は、1568年の独立戦争を経て、1648年のヴェストファーレン条約で独立を承認されました。
1602年に設立されたオランダ東インド会社はアジアとの交易にも乗り出します。
1639年、江戸にやってきたオランダ商館長のフランソワ・カロンは、幕府の閣僚に対し、オランダとの貿易を求めました。
当時の日本は鎖国政策を取っていましたが、ヨーロッパ諸国の中で唯一オランダとは外交関係を保ちます。
レンブラントがアムステルダムに出てきた頃、1632年。
同じネーデルラント連邦共和国のデルフトで、フェルメール(ヤン・ファン・デル・メール・ファン・デルフト( Jan van der Meer van Delft ))が生まれました。
このフェルメールが1669年に描いた『地理学者』の男性は、日本のどてら、たんぜんのようなものを着ています。

引用元:『地理学者』
The Geographer, 1669 シュテーデル美術館
日本の着物は「ヤポンス・ロック(日本風上着、Japonse rok)」として、当時の知識人たちに受け入れられました。
学校の授業では「出島から鎖国中の日本に外国の学問・文化などが入って来た」と受け身的に聞いたと思いますが、レンブラントが和紙を使用していたことや、フェルメールのヤポンス・ロックから日本文化が外国に与えた影響を見ると、とても誇らしく思います。
江戸時代
外国で、日本の紙って質がいいよなあと改めて感じたことって、ありません?
持っていたティッシュペーパーをあげた時、その薄さ、質の良さに驚かれたことがありましたっけ。
わたしたちの生活に欠かせない「紙」。絵画用に、団扇や扇子などの生活用品にと、あらゆる方面で大活躍です。
紙の需要が高まったのは江戸時代。
日本の各地で和紙の生産が行われるようになりました。

引用元:風流職人盡紙
下記に「和紙」関連のサイトを載せましたので、よろしければ参考になさってくださいませ。
紙の文化、いつまでも大切にしたいですよね。
デカくて重い画集と違い、所有し易く軽いサイズです。でも中身は結構濃い。レンブラント好きな方におすすめします


